聖書

ガラテヤ人への手紙から

ガラテヤ人への手紙は、パウロがガラテヤ教会の人たちへ宛てた書簡です。
イラストリビングバイブルには、以下のような解説が添えられています。

『「らしく」あろうとするとき、人は心の内側より、外面を整えようとしがちではないでしょうか。
それは、そのほうが容易だからです。
著者パウロが生きていた二千年前もやはり同じでした。ガラテヤのクリスチャンたちにとって、これは大きな問題でした。彼らは規則を守り、評判の良い生活をする人が正しい人間だと、思い違いをしていたのです。
パウロは自分の経験から、人は心が変われば、自然に正しい行いができることに気づいていたのです。』

ガラテヤの人々が、ユダヤ教徒の「律法を守らなければならない」という教えに大きく影響を受け、真の自由を失っているという知らせを聞いたパウロはこの手紙を通して激しい警告を送りました。律法によってではなく信仰によって義とされるということを。

1:10今わたしは、人に喜ばれようとしているのか、それとも、神に喜ばれようとしているのか。あるいは、人の歓心を買おうと努めているのか。もし、今もなお人の歓心を買おうとしているとすれば、わたしはキリストの僕ではあるまい。

 

2:16人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。それは、律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされるためである。なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからである。

「こうこうしなければならない」という組織の提示に、「こうこうしたから救われる」と信じ、ずっと進み続けてしまうことに似ているのではないでしょうか。私たちは組織を信仰しているのではありません。

第5章は、今の、組織で迷う人たちへの言葉のように感じます。そして私たちへの戒めでもある。

5:1自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。
5:2見よ、このパウロがあなたがたに言う。もし割礼を受けるなら、キリストはあなたがたに用のないものになろう。 5:3割礼を受けようとするすべての人たちに、もう一度言っておく。そういう人たちは、律法の全部を行う義務がある。 5:4律法によって義とされようとするあなたがたは、キリストから離れてしまっている。恵みから落ちている。 5:5わたしたちは、御霊の助けにより、信仰によって義とされる望みを強くいだいている。 5:6キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである。
5:7あなたがたはよく走り続けてきたのに、だれが邪魔をして、真理にそむかせたのか。 5:8そのような勧誘は、あなたがたを召されたかたから出たものではない。 5:9少しのパン種でも、粉のかたまり全体をふくらませる。 5:10あなたがたはいささかもわたしと違った思いをいだくことはないと、主にあって信頼している。しかし、あなたがたを動揺させている者は、それがだれであろうと、さばきを受けるであろう。 5:11兄弟たちよ。わたしがもし今でも割礼を宣べ伝えていたら、どうして、いまなお迫害されるはずがあろうか。そうしていたら、十字架のつまずきは、なくなっているであろう。 5:12あなたがたの煽動者どもは、自ら不具になるがよかろう。

神様は、ひとりひとりが走り続けてきたことをご存知です・・・。

そしてもう一つ、この書簡で感じたのは、
私たちは、 5:22「御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」であることを忘れてはならないということ。
時に、愛するもの、信念に対して侮蔑や敵意を感じると感情的になることもあるかもしれません。
でも侮蔑や敵意の部分だけに相対して授受していくと、どんどんと本意から外れていくのではないかと思います。
柔和な心をもってその事実に臨むのが賢明なのではないでしょうか。

そして常に謙遜な心でいること・・・。

6:3もしある人が、事実そうでないのに、自分が何か偉い者であるように思っているとすれば、その人は自分を欺いているのである。 6:4ひとりびとり、自分の行いを検討してみるがよい。そうすれば、自分だけには誇ることができても、ほかの人には誇れなくなるであろう。 6:5人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うべきである。

 

6:7まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。 6:8すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。 6:9わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。 6:10だから、機会のあるごとに、だれに対しても、とくに信仰の仲間に対して、善を行おうではないか。

私たちは、自らまいたものを刈り取ることになります。
より善をもとめ、行っていきたいですね。(*‘∀‘)

 
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