聖書

わたしは彼らに一つの心を与える

主の言葉がわたしに臨んだ。

「人の子よ、エルサレムの住民は、あなたの兄弟たち、すなわちあなたの親族である兄弟たち、およびイスラエルの家のすべての者に対して言っている。『主から遠く離れておれ。この土地は我々の所有地として与えられている。』

それゆえ、あなたは言わねばならない。主なる神はこう言われる。『確かに、わたしは彼らを遠くの国々に追いやり、諸国に散らした。しかしわたしは、彼らが行った国々において、彼らのためにささやかな聖所となった。』

それゆえ、あなたは言わねばならない。主なる神はこう言われる。『わたしはお前たちを諸国の民の間から集め、散らされていた諸国から呼び集め、イスラエルの土地を与える。

彼らは帰って来て、あらゆる憎むべきものと、あらゆる忌まわしいものをその地から取り除く。

わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。わたしは彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える。

彼らがわたしの掟に従って歩み、わたしの法を守り行うためである。こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。

しかし、憎むべきもの、忌まわしいものに心を寄せている者には、彼らの行ってきたことが頭上にふりかかるようにする』」と主なる神は言われる。

(エゼキエル書 11:14-21)

『聖書 新共同訳』より引用

日本聖書協会 今日の聖句

 

 

牧師の書斎というサイトで聖書のいろんな解説が紹介されています。
そこに掲載されていたこの聖句の箇所を読んでみました。一部引用します。

「神の栄光がエルサレムから離れた」牧師の書斎より

神の栄光がエルサレムの町を出て行ったのは、エルサレムが実際に陥落する年の五年前のことです。そのときどのようなことがエルサレムで起きていたかをエゼキエルは見せられることになります。

 

11章で、霊がエゼキエルを引き上げて連れて行ったところは、主の宮の東の門の入り口でした。そこには政治的な有力者たちが集まって、邪悪な計画と悪いはかりごとを巡らしながら、「家を建てるにはまだ間がある。この町はなべであり、私たちはその肉だ」と言っているのを聞きました。この会話が意味することは、エルサレムの町はなべのように難攻不落で敵の火から守られると考え、自分たちはその中に完全に覆われている肉、すなわち骨や内臓や皮などが取り除かれた良いものだと見なしていました。その背景には、第一回目の捕囚で連れ去られた者たちは罪深い者たちだという考えがあります。

 

神は、今や、彼らに対して、「この町はあなたがたにとってなべとはならず、あなたがたの中の肉とはならない」と宣言します。つまり、エルサレムの町は完全に敵の手中に落ちるということです。エゼキエルがそのように語っているとき、有力者の中の「ベナヤの子ペラテヤ」が死にました。この死はきわめて象徴です。なぜなら、「ペラテヤ」という名前は「神が逃れさせる」という意味ですが、その名前を持つ者が死んだということは、エルサレムの指導者たちが神のさばきを逃れる者はひとりもいないというメッセージだからです。
この出来事を見たエゼキエルは「ああ、神、主よ。あなたはイスラエルの残りの者たちを、ことごとく滅ぼされるのでしょうか。」と大声で叫びました。この叫びは9章の武器をもった六人の御使いたちによるさはぎを見せられた時にも発した叫びでした。
エゼキエルにとって、「残りの者たち」がさばかれことごとく滅びてしまうことは受け入れがたいことだったのです。しかし、エゼキエルの考える「残りの者たち」と、神が考えている「残りの者たち」とは異なっていたのです。

 

「残りの者たち」とは、運よく生き残ったという意味ではなく、たとい周囲が神のみこころに従わず、罪にまみれていたとしても、神のみことばに従い、神の恵みの中に生きて行こうとした者たちなのです。神はその者たちの額に「しるし」をつけられました。また、すでにバビロンの地に捕囚となっている者たちが「残りの者たち」だったのです。11章16節のみことばはそのことを語っています。
「神である主はこう仰せられる。わたしは彼らを遠く異邦の民の中へ移し、国々の中に散らした。しかし、わたしは彼らが行ったその国々で、しばらくの間、彼らの聖所となっていた。」

 

【新改訳改訂第3版】エゼキエル書11章17~20節

17 それゆえ言え。『神である主はこう仰せられる。わたしはあなたがたを、国々の民のうちから集め、あなたがたが散らされていた国々からあなたがたを連れ戻し、イスラエルの地をあなたがたに与える。』
18 彼らがそこに来るとき、すべての忌むべきもの、すべての忌みきらうべきものをそこから取り除こう。
19 わたしは彼らに一つの心を与える。すなわち、わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。
20 それは、彼らがわたしのおきてに従って歩み、わたしの定めを守り行うためである。こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。

「新しい霊を与えられた一つの心」、それは「石の心」に代わる「肉の心」で、主に対する柔らかな心、主を愛する従順な心を意味します。しかしその心は神の創造によってのみ造られるのです。この約束は実に重要で、エゼキエル書36章24~27節で再度ふれています。

 

なにか、、、とても感じるものがありました。

聖書は人であるということを感じます。

 

 

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