亨進様説教

神か大工か、「夜の神様」「昼の神様」

あまりにも多くの人がイエス・キリストとの関わりを宗教だと考えています。私たちは宗教に関心などありません。お父様は宗教を作りに来られたのではないのです。お父様は何度も郭グループ、金グループなどをかき混ぜ、ひっくり返したではありませんか。清平もそうです。お父様が願われたのは「関係性」です。そこが鍵です。

関係性こそ鍵だというのです。み言と交わる時、キリストに関わっているのです。
私たちは宗教を実践しているのではなく真実なる場を見出そうとしているのです。この本(More than a carpeter)の中で著者が自らの体験を通して知りえたことを示してきます。一度読んでみることをお勧めします。
著者はこう指摘します。「(会話に)イエスの名がでると、ある人はとても気落ちする。また非常に喜ぶ人もいれば、怒り出して会話を中断する人もいる。では釈迦やムハンマドの場合はどうであろう。孔子の場合は?そうはならない。なぜならイエスは「神の子」だと主張しているからだ。「神と完全に一体化している」と主張しているからだ。それは全く神聖冒涜行為である」

またこの本には「嘘つきの狂人、あるいは主」という章があります。著者はイエスの本当の姿を求めて様々な聖句を引用しています。「私を憎むものは、私の父を憎むのであある」「私を見たものは神を見たのである」これらの言葉は普通ならば完全に神を冒涜する言葉です。「すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない」(ヨハネ5:23)
このようにイエスはたいそう過激に自分の立場を主張しています。

私たちは原理講義を通じて何十年もの間イエス様は一人の人間だと教えられてきました。しかしお父様が最晩年に語られたことがあります。それは「夜の神様、昼の神様」です。いったいこれは何でしょうか。

お父様は「私は「夜の神様」から来た。私のほか、「夜の神様」から来たものはない」と仰いました。そして「夜の神様」は天地創造以前の神様である、「時間」さえも超越した神様であると説明されました。お父様はその「夜の神様」から送られたと言われたのです。この点でまったくイエス様と同じです。「私を見たものは神を見たのである」。

「道徳倫理の教師としてのイエスは受け入れられるが、神の子としてのイエスは受け入れられない」と多くの人が言います。この本の著者はこの点についてこう述べています。
「イエスを偉大な道徳教師として受け入れることはできるが、神の子のイエスは受け入れ難い」という人がいるが、それはやめた方がいい。なぜなら「自分は神の子だ」と主張する者が「道徳的」であるはずがないからだ。普通の人間でそのようなことを言い張るとすれば、彼は「自分は目玉焼きである」と主張するのと同じレベルの狂人か、地獄の悪魔である。イエスは「神の子」、「狂人」あるいは「地獄の悪魔」のうちいずれかであるかをあなたは選択しなければならない。

原理的にはおかしいと感じるかもしれません。しかし最晩年にお父様がおっしゃったことを想起してください。これは神学的には自己啓示(self-revelation)といわれるもので非常に大きな意味を持つものです。メシアの自己規定であり非常に重要な内容です。わたしたちが認識する内容ではなくメシア自身がこの世に向けて公表した自己のアイデンティティです。「夜の神様」「昼の神様」。これは大きな爆弾だといえます。お父様は「(夜の)神様から来た」と言われたのです。あまりにショッキングな言葉なので私たちは、このみ言をどう扱えばよいのかわかりませんでした。

50年以上にわたって、キムさん、ユさん、リーさんやパクさんなどが教えてきた内容とは180度も異なるみ言です。
この50年で私たちは「宗教」になっていました。生きた神様に合わせて生きることをしてこなかったのです。なぜ聖霊がいなくなってしまったかわかりますか。

「この組織に従っていかなければならない」「公文に従わなければ…」「今日の訓読会で2ページから8ページまで読みたいのですが、指示通りですか?」「それは公文の指示とは違います」などなど。まったく(神様、キリストとの)生きた関係とは関わりのない宗教組織になってしまいました。

 

礼拝説教 「生きたみ言」 Sunday Service
Rev. Hyung Jin Moon 2016/1/3

 

 

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